昭和50年07月02日 朝の御理解
御理解 第52節
「信心する者は驚いてはならぬ。これから後、どのような大きな事ができても、少しも驚くことはならぬぞ。」
驚くなと言われても、驚かずにはおられない。ましてそれが咄嗟の場合など、それこそびっくり仰天、玉の緒の切れるばかりに驚くのでございます。結局驚くなと言われても、驚かんで済む信心を身に付けたい。どんな場合であっても驚かんで済む信心。これは稽古をする以外にはありませんけどもね。その道の名人達人と言われる事になりますと、お茶の道ならお茶の道一本ででも、そういう一つの度胸と言った様なものが出来るそうですね。別に剣の道を学んだ訳ではなくても。
その茶匙一本で相手をしたと云う茶人があります。まして剣道とか柔道とかという様な、矢張り自分に力が無いから驚くのです。そういう名人達人と言う様になりますと、勿論それまでの修行もさる事ながら心掛けが違います。例えば剣道の愈々巧者な方と云うのは、決して道を歩くでも曲がり角を早曲がりなどはしないそうですね。心掛けですもう身に付いて居るのです。出会い頭にポッと切りつけられたらもう終える訳です。ですから遠回わりの方同じ道を回るでも、外回りをして通ると云う位な心掛けが要る。
柔道なんかの心得のある人やらは、決して幾ら寒いからと云うて、腕懐らというものをしませんそうです。腕懐どもして後からぱっと羽がい締めに締められたらもうそれでお終いですから、絶対腕懐などはしない。そういう細心な心掛けが、名人達人と言われれば言われる程、そういう心掛けというのが出来てくるらしいですけれども、名人達人になるまでの事なんです。信心もそうです。
大徳を受けたら、それこそ教祖の仰るように、どの様な事があってもそれこそ、山が崩れる様な事があっても、微動だもせんで済むほどしのおかげが頂ける。いわゆる安心のおかげであります。そんならそこまで到達してない者の信心と言うのは、矢張り度胸と言うですかね。今日私は御神前で、テレビでのコマーシャルをやってますね、博多の博多通いというお菓子の宣伝をやってますね。通い通わす博多通いとも言います。いわゆるキャッチフレーズなんです。その場面を頂くんです。
私はどういう様な御理解を、今日頂くだろうかと思うたらこの五十二節。いわゆるどの様な事が起こって来ても驚かんですむぞという様な御理解でしたから頂いた事と、それとで直感した事なんですけれども。お互いが名人達人と言われ大徳を受ける。受ければ問題ないです。それまでの過程というものがです。いわゆる通い通わすという仲にならなければならないのでございます。
まぁ例えばここで皆さんが、合楽合楽と言うて通うて見えます。昨日などは朝の御祈念もここ一杯なら、昼の一時から夏期心行が始まっておりますから、それこそここ一杯でした。割れるようないきおいで皆さんが心行に取り組まれる。そしてまた夕べは、お月次祭でございましたから、またここ一杯の人達がご参拝のおかげを頂いておる。朝も参る昼も参る夜も参る。
そげなことしよったら、仕事が出来んじゃないかと言うごたるけれども、そういう風に通い通わす仲というものが生れてくればです。例えば商売で損をしても決して、損にはならないおかげが生れてくるです。お百姓さんで言うなら、畑に草を生やしておってもです、言うなら収穫は、以上のおかげが受けられるです。問題はそんならいっちょ、日に三遍ずつ参ろう。その欲得が目当てで、三遍参ろうという様な事ではいけんのです。いわゆる通い通わす仲が生れてこなけりゃ。
さぁもうお月次祭の時間、もう一時間すりゃお祭りが始まると思うたら、家にはジッとしちゃおられない様なものなんです。そこに取次者私自身も、魅力ある先生にならなきゃならないと同時にです、皆さんもそこん所に焦点をおいて、私の信心のどこからあぁいうものが生れてくるかと言う事になって、段々懐の中に飛び込んでくるおかげを頂いておりますと、触れる事が変わって来る。見方が変わって来る。
いうならば日田の伊藤さんじゃないけれども、合楽の御理解のとりこになりましたと言う事になって来るのです。不思議です。通い通わせる仲。これは例えば恋愛。それは一つの熱病のようなもんだと言いますけれども。それこそ恐いものがなくなってくるです。それこそ小唄にもありますよね、惚れて通うに何怖かろう。それこそ惚れて通えば千里もまた一里と云う様な心の状態が開けて来る。
これは成し遂げたとか、達人とか名人と言わなくとも、そういう状態になる所までは、一つおかげを受けなければならないと云う訳です。ですから合楽の魅力と云うならばです、私に魅力がある訳はありませんけれども、何処にかそれを云うならばアバタもえくぼと申しますから。信心が好きになるとか一日参らなかったら、一日千秋の思いでです今日はどげな御理解がありよるじゃろうかと思うたら、じっとしちゃおれんくらいなものの育って来る願いを、先ず立てなければいけないと思いますね。
昨日は秋永先生ところの、奥さんのお父さんの霊様の十年の式年祭がございました。秋永の家に縁に付いてきておられるのでございますけれども、矢張り御霊様は此処にお祀りしてございますから、秋永先生達夫婦親子三人でした。肝心の最近杉山三男さんと云うのが、今杉山家の跡取りでございますけれども、此処の菊栄会の会員でもありますけども、最近、ちょっと信心が崩れておると云う感じであります。とにかく忙しいのに追いまくられておると言う事です。
昨日はとうとうお参り出来ませんでしたけれども、私は誰が来なければと言う事はないと思いましたね、昨日。昨日私は御神前で、その事のお届けをさせて頂きましたらね。蛇の目の傘、紫の蛇の目の傘。昔あったですね、蛇の目と云うからには、白でこう輪が書いてある。だから蛇の目と云うわけなんです。その蛇の目の傘の白い部分を、紫の同じ一色に、ズーッと塗りつぶしている所を頂きました。
あと一尺ばかりで塗ってしまう、まあ合楽で御理解を頂きつけておる人は、すぐ分かることだと思うのですけれども、傘というのはここでは安心と頂いております。傘を持つ。この方の道は傘一本で開ける道だと云われる様に、傘一本でと言う事は神様を信じて疑わない。そこから生まれる安心と言うのです。その安心の御霊様の一番最高の願いは、安心の御霊、喜びの御霊と言う事でございましょう。
云うならば御霊ながらの働きが出来る。そこにです私共、後に残った遺族の者と云うか、子供なり孫なりがです。御霊様へ真心を送って差し上げる。云うならば御霊の糧になるものを送って上げる。そこに御霊は生き生きとした御霊の働き。御霊の働きと言う事は、御霊ながらの働きなんです。子供のためやら孫のため働きよると言う事は絶対ありません。それはね御霊様を拝んで、どうぞお願いしますと云うたっちゃ、御霊様がそげな働きは、どんなに徳を受けとる御霊でも出来ません。
それは教祖金光大神のように天地金乃神と同根と云われる、これは又別です。天駈けり国駈けり、金光大神は来て呉れと言う所に行ってやると仰せられる働きが出来ますけれども。普通の御霊様は 御霊様にお願いするなんて、それこそこれは愚の骨頂です。ナンセンスです。そうでしょう死んだ者引っ張ってきてから、手足を動かせと云うても出来る筈はないじゃないの。只私共が子供として遺族としてです、先祖が生き生きとした喜びの御霊、安心の御霊として御霊ながらの働き。
御霊の世界で自由自在な極楽の世界にでも住めれる程しのおかげを頂いて貰いたい。だから信心をして本気で魂を清める稽古をさして貰うて、誰が送ってくれなくっても、御霊ながらの働きが出来るようなおかげを頂いておかねばならんと言う事を切に感じます。ですからそういう思い真心と云うものを送るのです。この御霊様が亡くなられる時に、此処には何回しかお参りしてなかったのですけれども、その方のすぐの弟になる方が杉山きょうようと云う、当時名代の絵書きさんでした。
その方が亭展に出品されて、これだけは杉山の家の宝の様にしておられた、今客殿に虎の絵と富士山の絵が、裏表にして大きな衡立てがございますね。あれがそれなんです。あれを合楽の親先生にお供えして呉れと云うて亡くなられた。だから今の三男さんが、立派に衡立てにしつらえましてね、そしてここへお供えさして貰いました。と云う意味で、或意味で合楽の先生に帰依しておったんです。合楽の先生は寅年と云う話を聞いとった。生前生きとる間は、まあだ惜し気があった。
合楽の先生はいつも日本一を目指しておられる。富士山を目指しとられると云う事じゃから、これを上げたいばってん、お供えしたいばってんと何時も思いよったけれども、中々出来なかったけれども愈々の時に、あれを合楽にお供えして呉れと言う事になって、此処に来ておる訳であります。そういう私は関わり合もあっての事だろうと思いますが、それこそ信心がおありになった事じゃないけれども、おかげを頂いて云うならば安心の御霊の一歩手前に居られると云う感じが致しましたね。
傘を塗りつぶしておるところを頂いた。御霊様の、もし言葉があるならばです、こういう風に御霊様が言われただろうと言うて、お話をした事でしたけど、今ご霊前に花のお供えがあってます。あれは秋永の奥様が、自分でお花を持って来て自分で活けて、いわゆる御霊様にお供えした訳です。萩桔梗それから白菊が三本入れてあります。萩桔梗中に玉ずさ忍ばせて頂きました。
萩桔梗と云うことは、淋しい心と云う感じが致します。信心を頂いて段々おかげを頂いて居るけど、それでも自分の子供達は十二人おられます。けどもその十二人の子供達の中に、三男さんと秋永の奥さんが信心するだけでございます。けれども中に玉ずさ忍ばせてと云うことがです、私は白菊と云う事は、清らかなもの菊とは、ここでは喜びを頂いております。喜び久しいと書いて喜久と読みます。
清らかな喜びをです、秋永先生夫妻にです、神様がお礼を云われる心の状態が、あの花に現れるんだと言うて話したことでした。そうい働きがあっておるわけです。私共は人からお礼を云われる程しの私共になる。先祖の御霊様から、お礼を言うて貰えるような私達にならせて貰う。金光様の信心は、神様からも一礼申して頂ける程しのおかげを頂くことが信心の眼目でありす。
私が一人助かったために、千人も万人の者が助かってくる。天地金乃神様がそれが悲願であり、願いでおありになるのですから、お前が一人助かってくれたために、沢山な氏子が助かって行く。それこそ神様が、お礼を言うて下さる様な働きが、次のおかげの働きに現れて来るんだと思うです。先ず私共の信心に依って、人からお礼の言うて貰えれる様な人格を作らにゃいけません。
同時に眼には見えないけれども、先祖の御霊様が、貴方方が手篤い信心して呉れるから、私達もおかげで御霊の世界で御霊ながらの働きが出来るようになったと云う位なおかげを頂きたいですね。そういう意味で、御霊をいよいよ大事にしなければいけません。そして霊神様の前でお礼申さして貰いよりましたら、鉄火巻です、中にまぐろか何か入った小さな、お寿司屋さんに行きますと鉄火巻と云うのがありますよね。手巻か何かにして握って呉れる寿司です。
ところがその海苔を縦に破って、中に魚が入っとるとをこう出した所を頂きました。そしてこう破れておる所を見ると、何とそれは梅の紫蘇葉が刻んである御飯が中に包んである訳です。これはどう言う事かと云うと、生臭気と云うのです。精進のない物を取り除いたという事です。例えば三男さんなら三男さんが、最近信心が少し乱れておる。精進しよらない。だからそれを取り除いた。
だから仕方が無い。鉄火巻きのその海苔の破れておるけれども、その中の御飯と云うのが、梅の紫蘇の葉です、紫蘇の葉を小さく刻んで御飯にこうまぶしてあると云う。だから、それで結構頂けるから、御霊様は見かけは悪いけれどもままになっておると言う事は間違いがないと言う事です。遺族の者の信心を此処にしっかりさせて貰うて、綺麗に外が海苔で捲いてあるならです、海苔と言う事はあれは安心と言う事です。
又は信心修行と言う事です。信心修行が出来るなら、もっと御霊の喜びもさる事ながら、自分達も喜びの信心生活が出来る訳になります。そういう様なお祭りを、昨日奉仕させて頂きましたがです、これは御霊だけが安心の御霊じゃない。私共自身が安心を目指しての信心にならなければならんのです。そこで例えばお取次を頂くと言う事。どういう難儀な問題があっても、どういう苦しい事であっても、お取次を頂く御教えを頂く。そこから心が開けて来る。
日田から梅野さんという方が、毎日それこそ合楽の虜になられたのじゃなかろうかと思う位に、お参りをなさいます夫婦で。夕べも月次祭に参っておりました。そして隣の方の、それこそ子供さんの事で難儀な問題で、初めてお導きを頂いて参って来ました。お祭りが済んだら、私が控えて居る所に三人見えられまして、色々話を聞かせて頂いたんですけれども。子供さんの事を願う親の心としてはです。
お知らせに頂きますことが、左利きの者がです、右利きになる為の精進をしますね親も。左でお箸を握っちゃでけん、左で鉛筆握ぎっちゃでけん、と云うていつも掛かりきりで言わなければならん。自分自身も、右に持ち替える事の精進を、愈々しなければいけない。その位の心掛けが要ると云うお知らせです。その心掛けが出来ればおかげになる。その精進を、具体的に言うならばです。
いろんな問題がいろんな難儀な問題、様々の事があるけれども、それをあぁ困った難儀と云わずに、子供がおかげを頂く事のための修行だと、心に掛け続けておかなければならない。それこそ左持ちが右持ちが出来る為には、その位の心掛けと云うものが要る様に、その心掛けが要るんだと云うてお話をした事でしたけれども。本人は初めてのお参りですから、意味がよく分からなかった様ですけれども。それでも大変おかげを頂かれて帰られましたが、二人のお導きしている夫婦の者の方がおかげを頂いておる。
親が子の事を願う切実な心。そんなら子供がお願いをして居る、おかげを頂かんならんと念願を立てる。そんなら、そのために、この難儀もこの苦労も、子供がおかげを頂く事の為の修行だと思うたら、合掌して受けられん事はないと云う事なんです。その梅野さんと云う方が、お参りをして来る様になったのは、ここ一週間余りです、それこそ繁々と参ってまいります。今朝は、朝の御祈念に参っておられない。
朝の御祈念に参って来る。昨日は朝そして御主人の方が昼の修行に参って、昨夜は奥さんと二人で参っておられます。しかもお導きをして参って見えておる。これも或難儀なそれこそ、これも子供の事でしたけれども、玉の緒の切れんばかりにびっくりする様な問題が起きたんです。もう此処を締めて電気を消して、遅くなってから夫婦で参って見えました。それで私が申しました。
とにかく一日も早く安心が出来るようにお願いをするかなねと。と云うて実はあの時に、私はこう云うお知らせを頂いたから、あんなに言うたんですよと云うて、夕べも話したことでした。あのラムネ飲み物のラムネ。ラムネの玉がポンと上に上がるところを頂いた。それこそ、玉が上に上がるぐらいにびっくりした。難儀を感じたんです。だからこれを頂いたから、今日これを飲ませる事になった。教えを頂かせる事になったら、明日はべスーっと云う様なおかげを頂くなぁと私は思った。
翌る朝の御祈念に参って来た。まぁだそん時までは、おかげになってなかったけれども、さぁ御祈念から帰らせて頂いたら、それこそラムネ飲んだ後のベスじゃないけれども、胸につかえておった溜飲が一遍に下がる様なおかげになって来た。まぁそれからと云うものは、もう合楽の先生の仰ることはと云う気持じゃないでしょうか。今それこそ朝参り、夜参りさせて貰う。云うなら七里も八里もある所から、お参りをして来ると云うのですからとてもです、今日私が申します。
通い通わせる仲が生れて来なければ出来ることじゃないです。そこに自分の助かりがです、隣の方の難儀を見るに見かねて、私共こうやっておかげを頂いて行きよる、助かって行きよるから、貴方もどうでんお参りしなさいと云うて、昨日お導きとなった訳です。まあ色々聞いて頂きましたがです、驚くなと云われてもこれが驚かずには居られるかと云うような事が起きて参ります私共の行く手には。
けれども先程申しました信心もです、名人達人お徳を受けると言う事になると、人が玉の緒が切れる様な事が起こってもです、おかげ頂いたと云えれるのです。そういうものが段々生れて来るです。自分の所の火事を見ながらです、おかげを頂いたこの丸焼けになったが、丸焼けになったお礼のお届けは幾ら幾らさせて頂こうかと言うて、次の計画を火事を見ながら、その目録に書いたと云う人があります。
もうそれこそ焼け太りのおかげを頂かん筈もない徳を受けん筈もない。火事が焼けた。お礼のお届けは幾ら幾らさせて頂こうかと言うて、それを一番口書いてある。その方の家は三回焼けた。けども焼けるたんびに焼け太りした。大川の家具屋さんです。だから信心の度胸と云うか、力を受けて来ると、その事もまたおかげとして頂ける様に段々なりますけれども、その為にはです。
私は今日は、皆さんに聞いて頂きたかった所はです、通い通わす仲を、先ず作る事だと言う事でございます。いうならば信心が好きにならなければいけません。おかげは好いとるばってん、信心は好かんと云う様な事ではでけん。信心が好きになるから、その信心におかげは要らんと云うても、伴うて来るのです。そういうおかげを頂いて参りましたらです、人が驚かんならん時でも驚かんで済む。
むしろそれは或意味では、それを変態心理と云うかも知れません。火事が焼けよるとにニヤッと笑うと云う様な事はね。けどもそういう心の状態が本当に開けてきたら、人間は幸せです。それはお徳を受けなければ出来る事じゃございませんけれども、為にはどうでも信心が好きになる工夫。それには、本気で教えを頂くと言う事。教えを行ずると言う事から始まらなければならんと思いますね。
どうぞ。